腰越の道祖神塔・庚申供養塔・堅牢地神塔
腰越には現在数カ所(7か所)に道祖神塔などが所在していますが、腰越まちづくり市民懇話会では、関係町内会とともに三カ所の道祖神及び庚申供養塔について平成29年(2017年)12月に説明板を設置いたしました。
説明板には字数の制限もあり、簡略な説明となっておりますので、詳しい説明文をこのホームページに
記載することに致しました 。
道祖神は道路の悪霊を防いで、道行く人を守ってくれる神さまです。地域に入ってくる流行病
や貧乏神を防ぎ、さらに良縁・出産・夫婦円満の神さまでもあります。
「みちしるべ」を兼ねるものもありました。道(どう)陸(ろく)神(じん)とも呼ばれます。
腰越でも、「道祖神は道路の悪魔を追い払い、人々が安心して往来できるよう、道路の事故がないようにしてくれる神さま。地域に入ってくる流行病や貧乏神を防ぎ、おまけに豊かな稔りや安産、多産を授けてくれる神さま」と信じられてきました。
道祖神塔の他に庚申供養塔や堅牢地神塔が建立されているところもあり、今でも、附近の人たちが手を合わせお祈りし、お祀(まつ)りしています。いつもお花を供えているところもあります
このホームページの説明文は、鎌倉市中央図書館発行「鎌倉市近代史資料第七 鎌倉の野仏」および鎌倉市教育委員会発行「道ばたの信仰 鎌倉の庚申塔」等を参考にして記述いたしました。また、崩し字で刻まれた文字については、古文書研究会小松郁夫様に解読して頂きました。なお、文中の□は、摩耗等により判読できない文字です
今回、対象にした道祖神塔等の所在地・説明板所在地は、次の図のとおりです。
①神戸地区・諏訪神社裏所在「道祖神塔・庚申供養
江の電腰越駅を下車して神戸川に沿って北に100メートルほど進んだところにあります。ここには道祖神(どうそじん)塔四基と庚申供養(こうしんくよう)塔一基が祀(まつ)られています。
腰前列右側の石塔(図の①)は冠(かんむり)をつけ、笏(しゃく)(威
儀を整えるために手に持つ板)を持つ神官姿の道祖神です。
右側面に「文政五午正月吉日」とありますので、江戸時代の末、文政
五年(一八二二年)正月に建立(こんりゅう)されたことがわかります。
左側面に「神戸(ごうど)氏子中(うじこじゅう)」とありますので、諏
訪神社の神戸の氏子(うじこ)(氏神の信者)が講(こう)(信者のグループ)を作り、お祀りしていたと考えられます。
前列左側の石塔(図の②)は、二体並んだ神官と考えられる道祖神で
す。右側面に「神戸」とあります。左義長(神戸では「サイト」と呼ん
でいる。)は毎年一月に海岸で行われますが、その際この道祖神の石塔
がそこに移されお祀りされます。
後列右側の石塔(図の③)は、神官姿と考えられる道祖神です。
右側面に「明治九子一月 施主(せしゅ) 山崎文□□」とあります。
明治九年(一八七六年)一月に山崎という方が建てて、お祀りしたと
わかります。
後列左側の石塔(図の④)は襟(えり)まで頭巾(ずきん)のようなもの
をかぶる二体並んだ神官と考えられる道祖神です。
左側面に「大正十二年十二月井上卯□」とあります。
大正12年(1923年)に井上という方が建ててお祀りしたとわかり
ます。
後列真中の石塔(図の⑤)は庚申供養(こうしんくよう)塔です。
昔の暦により六十日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の夜に眠る
と人の身体に三尸(さんし)という虫が身体から抜け出して天帝
(帝釈天)にその罪を告げ、そうすると寿命が縮むとされています。
これを防ぐために講というグループを作ってその夜は眠らずに過ごし
て無病息災(むびょうそくさい)(病気をせず健康であること)を願いま
した。この石塔はその時の記念に建てられたものです。
この庚申供養塔は邪鬼(じゃき)(邪悪な神、たたりをする神)の上に
青面金剛立像(しょうめんこんごうりゅうぞう)を正面にして、上部に日
月(じつげつ)(太陽と月)、下部に三猿を浮き彫りにしています。
青面金剛は庚申信仰の本尊で、病魔、病鬼を払い除く。顔の色が青く、
髪は逆立ち四本または六本の腕を持ち、赤い三眼(さんがん)(眼が三つ
)の忿怒相(ふんぬそう)(怒った顔)をしているとされています。
左側面に「右へかまくらみち」と刻まれているので、「みちしるべ」
を兼ねていたことを知ることができます。
②土橋地区・湘南信用金庫の奥の三叉路所在「道祖神塔」
腰越電車通りの湘南信用金庫とスズキバイクショップの間の道を北に約120メートルほど進んだ三叉路にあります。
ここには道祖神(どうそじん)塔五基が祀られています。
前列右側の石塔(図の①)は、神官姿と
考えられる像を浮き彫りにした道祖神です。
右側面に「文化(ぶんか)丙子(ひのえね)
歳」、「吉日」、左側面に「氏子(うじこ)」
とあります。
江戸時代後期の文化十三年(一八一六年)
に氏子(氏神の信者)によって建立(こん
りゅう)されたことがわかります。
腰越にある年号の記載されてある道祖神
の中で最も古い道祖神です。
前列左側の石塔(図の②)も神官姿と考
えられる像を浮き彫りにした道祖神です。
像の右に「天下泰平」、左に「□安□□」。
右側面にも文字があります。
(昭和62年鎌倉近代史資料第七「鎌倉の野仏」では「奉納□□□□岡田兵右衛門」
としている。)
後列右側の石塔(図の③)は、道祖神と文字を彫った道祖神です。
その右に「安政七(あんせいしち)庚申(かのえさる)□春」、左に「岡田兵右衛門」
とあります。安政七年(一八六〇年)に岡田兵右衛門によって建立されたことがわ
かります。
後列真ん中の石塔(図の④)は、道祖神と文字を彫った道祖神です。
左側面に慶應(けいおう)第四(だいよん)丙辰(ひのえたつ)年正月□気長日建之」とあります。(「丙辰」は「戊辰」の誤りか)
慶應四年の正月に建立されたと考えられます。下の台石には「三ヶ街」とあり、左側面には「世話人」とあって中原町、下町及び土橋町の建立にかかわったと考えられる人の名前が刻まれています。
後列左側の石塔⑤は、「道祖神」と文字を彫った道祖神ですが上部が欠けています。
左側に小型の道祖神の石塔が二基あります。左義長(ドンドまつり)は毎年一月に海岸(土橋)で行なわれますが、その際裏面に平成二十六年奉納とある道祖神の石塔(図の⑥)がそこに移され、お祀りされます。
③中原地区・慰霊塔横所在「庚申供養塔・道祖神塔・堅牢地神塔」
中原にある「戦没者慰霊塔」の横にあります。
ここには庚申供養(こうしんくよう)塔二基、道祖神(どうそじん)塔一基および堅牢地神(けんろうじしん)塔一基が祀(まつ)られています。これらの塔は、もとは長山の入口「小学校への道」角などにありました。
右から一番目の石塔(図の①)は、
庚申供養塔です。
昔の暦により六十日ごとに巡ってくる
庚申(かのえさる)の夜に眠ると人の身
体にいる三尸(さんし)という虫が身体
から抜け出して天帝(帝釈天)にその罪
を告げ、そうすると寿命が縮むとされて
います。これを防ぐため講(こう)という
グループを作ってその夜は眠らずに
無病息災(むびょうそくさい)(病気をせず健康であること)を願
いました。この石塔はその時の記念に建てられたものです。
この庚申供養塔は、自然石にその真ん中に大きく「庚申」と彫
り、上部に日月(じつげつ)(太陽と月)、右に「弘化三年」、
「講中(こうじゅう)」、左に「丙午(ひのえうま)六月□□安全」
と彫ってあります。
弘化三年(一八四六年)六月に講中(信者のグループ)によっ
て建てられたことがわかります。
右から二番目の石塔(図の②)は、道祖神(どうそじん)です。
この道祖神は、大きく「道祖神」と文字を彫り、その右に
「昭和六辛未(かのとひつじ)歳一月吉日」、左に「腰越町字原」
とあります。昭和六年一月に建立されたことがわかります。
裏面に発起者として、坂本定吉、小島徳藏、小川高二良、細井
竹二良、井上道五良、細井由五良、松本吉藏とあります。
右から三番目の石塔(図の③)は、堅牢地神(けんろうじしん)塔です。
堅牢地神は十二天(毘沙門天など十二の神)の一つ。大地をつかさどる神さまで、大地を捧げて堅牢とするとされています。釈迦が成道(じょうどう)の時(悟りを完成した時)、地から現れて魔を除き、転法輪(てんぽうりん)(仏が教えを説くこと)を諸法
(宇宙空間に存在するあらゆるもの)に告げた仏法(仏教)の守護神です。
この堅牢地神塔は、自然石の正面に「堅牢大地神」と彫り、左右に「五穀豊饒」、「天下泰平」とあります。裏面に「天保七年龍□丙申(ひのえさる)三月大安建之」とあり、天保七年(一八三六年)三月に建立されたことがわかります。
右から四番目の石塔(図の④)は、庚申供養塔です。
この庚申供養塔は六本の腕を持ち、合掌した青面金剛立像(しょうめんこんごうりゅうぞう)を正面にして、上部に日月(じつげつ)
(太陽と月)、下部に三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)を浮き彫りにしています。
青面金剛は庚申信仰の本尊で、病魔、病鬼を払い除く。顔の色が青く、髪は逆立ち、四本または六本の腕を持ち、赤い三眼(さんがん)(眼が三つ)の忿怒相(ふんぬそう)(怒った顔)をしているとされています。青面金剛立像の右に「寛政五(かんせいご)癸丑(みずのとうし)十一月吉日」、左に「天下泰平」、「五穀成就」(全ての穀物が豊かに実ること)とあります。
寛政五年(一七九三年)十一月に建立されたことがわかります。
下の台石には「当村」とあって、井上傳兵衛、細井紋四郎、小川佐平治、新倉半兵衛、室田新右衛門、新倉茂左衛門、二宮杢兵衛及び新倉孫左衛門と読み取れる名前が刻まれています。
◇ 道祖神祭り、庚申講等について
〇 道祖神祭り
道祖神祭りは、全国的にはいろいろな名で呼ばれ、いろいろなやり方で行われています。ドンド(ヤキ)、ドンドン(祭り)、サイトヤキ、左義長などと呼ばれています。共通しているのは、小正月に行われる火祭りということになります。その多くは正月の14日か15日に行われます。
腰越では、現在は正月の14日の朝に左義長、サイトとして行っています。神戸を例にとると土橋の浜で門松やしめ縄などを燃やし、諏訪神社裏から持ってきた道祖神の石塔にお線香をあげ、手を合わせてお祈りしています。
昔はもっと盛んに行われたようです。鎌倉市文化財資料第七集「としよりのはなし」などによりますと、昔の腰越の道祖神祭りは子供が中心だったということです。これらによると概略次のとおりです。
「正月三ケ日が過ぎて、門松がはずされるとそれで家形の小屋を作った。小屋は各町内で一つずつ浜にこしらえた。子供たちは14日の前の日まで毎夕その小屋に集まった。集まると大きい子が提灯を持ち、小さい子たちはそれについて家々を回って歩いて、提灯の中に銭を入れてもらった。そのお金で、お菓子を買い、平等に分けた。14日の朝になると大人たちは門松でこしらえた小屋をこわし、その材料で舟の形をこしらえた。舟の大きさは長さ9メートル、幅が1.8メートルぐらいあった。それに五色の紙
を継ぎ合せた幟(のぼり)を作り道祖神と書いたものを何本も立てた。
各町内で一つずつ作ったから、全部で五艘になった。その舟を道祖神のところに運んで、道祖神には酒をかけ、舟には火をつけた。子供たちはその火の中に書初めの紙をほうりこんだ。また、紅白の団子を木の枝にさして持って行って、その火で焼いた。その団子を食べるとその年は風邪を引かないと言われた。」とあります。
〇 庚申信仰
庚申信仰は60日ごとに巡ってくる庚申(かなえさる)の日に行われる信仰です。
人の身体の中には三尸(さんし)という虫がいて、庚申の夜にその人が眠るとこの虫
が天に昇ってその人の罪を天の神様(帝釈天)に告げる。そうするとその人は早死にす
ると言われていました。それゆえ、その夜は皆で集まって青面金剛像の掛け軸をかけ、
灯明を供え、眠らないようにしたということです。
昭和48年に発行された「道ばたの信仰~鎌倉の庚申塔~」には、市内の山崎、打越、
十二所で行われていると書いてあります。現在では行われていないようです